何のためにアウトプットしてるのかを見失ってはいけない

■主張

保身や短期的な面倒を理由に他人へのフィードバックを控えるべきではない。それ以外の理由がある場合はいたしかたないかもしれないが、とはいえ相手が求めているのであれば、なぜフィードバックできないかについては伝えるべき。

■アウトプットを公の目に晒すことの価値

自分のアウトプット(仮説)を公の目に晒すことは、以下3つの機会を得られるという点で価値があると考えている。

    1. 自分が自身のアウトプットと真剣に向き合う機会
    2. 他人からのフィードバックを受ける機会
    3. 自身のアウトプットについて責任を持つ機会

1や2については、一定の範囲であれば、わざわざ公の目に晒す必要もなく得ることが可能な機会といえる。しかしながら3についてはアウトプットしたものを自身のテリトリー内に保管していてはいつまでたっても得られることがない機会だと思う。
私はこの「自身のアウトプットについて責任を持つ機会」を大事にしている人間こそ成長できる人間だと考えているし、アウトプットを公の目に晒すことの価値の多くはこの機会を得ることが出来る点にあると考える。

■一方でこの価値を目減りさせる人間がいる

以上のように覚悟を持ってアウトプットを公の目に晒している人間に対し、

    • この人に嫌われたくないから
    • 議論することが面倒だから
    • 自分の意見が間違っているかもしれないとの不安があるから

といった理由でフィードバックを控える人間がいる。私はこの人たちに言いたい。

逃げてんじゃないよと。

上記のような保身的理由以外に理由があったとしても、そこを濁していては、フィードバックを求めている側に「この人は保身的理由から逃げている」と映ってしまっても仕方ない。それを覚悟の上で守るべきものがあるのなら致し方ないのかもしれないが、出来れば納得のいく説明をして欲しいものだ。

■とはいえフィードバックするしないは自由

とはいえ、私は世にいる全ての人間に全ての事象についてフィードバックしろと言いたいわけではない。私が言いたいのは、「だれかのアウトプットにフィードバックをしてあげることは大きな価値を生む」そして「それが出来る人間はすばらしいと思う」ということ。
私の尊敬する人間は、批判・反論・陰口などあらゆるネガティブなフィードバックが発生しようともアウトプットの公表を辞めないし、そういう人ほどフィードバックが丁寧かつ誠実である。本当に人の成長を思い、気遣いながらフィードバックが行える。
出来ることなら私はこういった人間でありたい。
出来ることなら私はこういった人間のもとで仕事をしたい。
そして、出来ることならこういった人間とせめぎあい、共に成長したい。

今日そんなことを思ったので、この場を借りてこの思いというアウトプットを世の目に晒す。

■余談

このブログで初めて日記的なアウトプットをしてみた。基本的にはこのようなことは控える方向で更新するつもり。

■追記

分かっていただけていると思うが、このエントリの意味は「みんな私にフィードバックしろよ!」ではない。
表題に「何のためにアウトプットしてるのかを見失ってはいけない」と書いたように、「私がブログという形で世に向けてアウトプットしているのは、自身のアウトプットに責任を持ちながらもしっかりとフィードバックが出来る人たちとともにせめぎ合い、成長したいからである」という点を私自身が見失わないようにしなければ、といった決意のエントリだ。
読み返してみて、少なからず誤解される方が出る可能性もあるなと思ったので追記しておく。